源流域のまち 坂下地区

坂下がもっとも栄えた時期の図絵を見ると、まるで往時の江戸や京の都のようです。山林を資源として商いをした時期もありました。今も清い水と鈴鹿峠の歴史・文化の雰囲気漂う家並みが残っています。

ブログ

いきもの調査クエスト ~鈴鹿川等源流域の生き物を調査せよ!!~  調査結果レポート

スマートフォンアプリ『BIOME』(以下、BIOME)を使った「いきもの調査クエスト」を行ったところ、106名の方にご参加いただき、たくさんの『いきもの』の情報が集まりました。 鈴鹿川等源流域(すずか...続きを読む
2022-01-20

R3.11.3[坂下地区イベント]3つの森の楽しみ方!

  と き  11月3日(水・祝)午前9時30分~正午 ところ  鈴鹿峠自然の家/ブレンディの森 対象者  市内在住の方 定 員  5組  ※申込者多数の場合は抽選 参加費  無料  ※木工工作は各組...続きを読む
2021-10-15

いきもの調査クエスト~鈴鹿川等源流域の生き物を調査せよ!!~

R3.10.1「生き物調査クエスト」始まりました!

「生きもの調査」と言っても 5つの生き物をみつけて 写真を撮って 投稿するだけ。 1! 2! 3! 4! 5! まずはバイオームをダウンロードしよう。 ■ アイフォン用 ■アンドロイド用  ...続きを読む
2021-10-01

 

 

坂下地区

坂下地区まちづくり協議会
(亀山市 鈴鹿馬子唄会館内)
https://magoutakaikan.wordpress.com/
〒519-1102 三重県亀山市関町沓掛234
マップコード
34.882274,136.3575153


訪ねどころ

観る・・・片山神社、東海道の街並み
歩く・・・高畑山、鈴鹿峠、東海自然歩道
買う・・・


交通の要衝 坂下地区

 

伊勢国と近江国(今の三重県と滋賀県)を隔てる鈴鹿山脈の南端に位置する三子山と高畑山。その谷間に鈴鹿峠があり谷筋ごとに山地の水が集まり鈴鹿川ができます。

川の水も人も、なるべく等高線の少ないところを通る・・・

鈴鹿川沿いの比較的歩きやすいところを人が行き来しはじめ、都市が栄えると都市間をつなぐ道としてますます人が往来し、街道となり、峠を越えて街道を行き交う旅人を相手に商いが盛んになります。

このようにして古代からの交通のかなめ東海道となり鈴鹿峠のおひざ元である坂下地区が旅人の足を休める宿場町として栄えるようになったのではないでしょうか。下の図絵で「坂ノ下」とも書かれているように鈴鹿峠の坂を下る…、想像をしてください。

商業でにぎわう坂下

『伊勢参宮名所図会』(写真提供 亀山市歴史博物館)

インターネットも電話もテレビもない時代、伝達方法は人伝いでしかなく今よりずっと時間がかかった時代です。東から西から、ひっきりなしに往来するいろんな立場のいろんな人たちが旅人として坂下に逗留する間にどこより早く最新の話題をもたらし、また道中の来し方行き先についての話に花が咲いたことでしょう。
そのような境遇から鈴鹿峠には旅人を戒めたり癒したりする物語が数々生まれています。

物語の宝庫へ

現在では、昔の東海道の一部が東海自然歩道として親しまれており、目的地へ向かう旅の途中に寄るのではなく楽しみの目的地として人々が訪れます。東海自然歩道で四季折々の風景を楽しんで歩く人、ロードバイクでサイクリングを楽しむ人が行き交っています。山々のみどりに目を癒し、木々の出す新鮮な酸素で深呼吸して石畳を歩き、昔をしのんで神社や陣屋跡を訪ねて歩くことができます。

鈴鹿峠を越える道

かつて馬や旅人が歩いた東海道にかわる国道1号線には自動車やトラックが走り、今も物流や人の流れを支える大きな役割を果たしています。

 

おおきな災害の経験 慶安東海大水害「寅年の洪水」

今から約370年前の江戸時代初期、坂下で大雨による大きな災害がありました。慶安3年(1650年)新暦の9月24日から27日にかけてのことです。

9月24日から降り出した雨が、26、27日と豪雨になり、摂津国(兵庫県南部)から山城国(京都府南部)、近江国(滋賀県)、伊勢国(三重県)、美濃国(岐阜県南部)にかけて各地で大洪水を引き起こしました。伊勢国では亀山城(亀山市)の城門、塀、櫓(やぐら)などが人馬とともに流されるなど人家450戸が倒壊、流失し、200人余りが亡くなりました。

 坂下地区においても、当時片山神社付近にあった旧坂下宿を大洪水が襲い、大部分の家や畑を押し流し壊滅状態になったそうです。

現在の片山神社の写真と見比べてみてください

『伊勢参宮名所図会』(亀山市歴史博物館所蔵)

その後幕府の力添えもあって、約500間(900m)にわたって高さ3間(約5.4m)の石垣が築かれました。水害の1年後には当時の坂下宿より十町あまり東の現坂下の地に約110戸の移転が終わりました。

現在の坂下の獅子舞行事は、坂下の集落が現在地へ移転した際に、坂下宿の再起と日々の平安を願って始まったとされています。

片山神社 昔も今も石段は変らない様子

街道随一のにぎわい

災害から50年ほど経った元禄14年(1701年)には集落の軒数は190軒と約2倍に増加しておりさぞ活気があったことでしょう。現在でも旧街道沿いには100年近く暮らしを支え続ける家々、陣屋跡、寺社などが残っています。ぜひ長い歴史や時代時代に行き交った多くの人々に思いを馳せながらのんびり歩いてみてください。

  • 『鈴鹿関町史』関町教育委員会 編P651~657
  • http://www.bosaijoho.jp/reading/item_5870.html
    (R2.6.7引用)池田正一郎編「近世に於ける災害記録」、高木勇夫編「明治以前日本水害史年表」、大垣市編「大垣市地域防災計画・第2章災害履歴」ほか 

さらに40年後の寛保元年1741年には大坂の豊竹座で浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦』が初演されています。鎌倉時代初期や江戸時代初期の書物に見受けられる鈴鹿峠の伝承によく似ています。

江戸時代の「トレンディドラマ」とも言える浄瑠璃の脚本として取り上げられ上演されたことにより「鈴鹿」の名は世間に広く高く響き渡ったことでしょう。

このように、江戸期の坂下宿は知名度を誇り商業の最盛期であったと言えます。ぜひCGを使った映画やドラマなどで当時を再現した様子を見てみたいものですね。

物語の宝庫へ

地域の資源に支えられた坂下宿のにぎわい

 公共交通機関が整備され電車や自動車が普及するまでは、旅人の逗留先として茶屋や宿屋などが栄えました。東海道五十三次の四十八番目の宿場町として坂下宿が栄えた江戸時代中期には、大名・旗本が泊まる本陣・脇本陣が4軒、旅籠48軒が軒を連ねたそうです。間口が25m奥行45mもあるような東海道随一の大店(おおだな)もあったことが、馬子唄にも歌われています。大名や公家・文化人から物流を支える商人まで、多くの人が行き交った坂下宿の旅を支える宿泊・飲食店施設などの賑わいや盛んな商いは、薪や炭などのエネルギーから食料・資材まで、鈴鹿峠周辺の山地・田畑などからの地域資源によって支えられていたことでしょう。

『伊勢参宮名所図会』(亀山市歴史博物館所蔵)

 坂下地区の多くは山地で、田畑として耕せるような土地は少なく商業で暮らしが成り立つまちでした。宿場町としての役割を終えてからも、鈴鹿峠周辺の山々から薪や炭を出し地域で消費するだけでなく平野部のまちに向けて商っていました。昭和25年の木炭検査実績の記録によると亀山で3番目、年間7,000俵近くの炭を生産していた様子が伝えられます。地域内での自家消費を含めると実際にはもっと多く生産していたと考えられます。

鈴鹿 の 「水」

 鈴鹿峠近くの片山神社は、災害をくぐり抜け鈴鹿峠を往来する旅人たちを見守ってきましたが、残念ながら現在、社殿は焼失してありません。ですが、かつてあった社殿の背後には巨岩がむき出しになっており、その岩肌からは常に水がしたたり、今でも花やお神酒が献じられています。

この近辺に、平安時代には「鈴鹿頓宮」があり斎王が禊をしたとされる記述も残っています。また、片山神社から下って坂下宿のあたりには岩屋観音と清滝があるなど、昔から水に恵まれ水を大事に思ってきた地であるようです。

絵図にもあるように、片山神社横あたりは今でもごうごうと流れる小さな滝になっている

 鈴鹿川は峠の南側にある高畑山を主な源流としていますが、坂下地区周辺の森林をはじめとするこの山地一帯が源流を育み、水源として地域とその下流の人々の暮らしを潤し海の生き物を育んでいます。