源流域は物語の宝庫

鈴鹿峠は物語の宝庫

鈴鹿山脈、鈴鹿峠に鈴鹿川。

「鈴鹿」という名は長い歴史を持ち、その由緒は源流域をはじめ亀山の宝物と言えます。

古代から「鈴鹿山」と呼ばれてきたのは現在の「三子山」を指し、『今昔物語』や和歌などに登場する「鈴鹿山」は鈴鹿峠を越えることを指していたようだ、と考えられています。古くは「阿須波道」と呼ばれ仁和2年(886年)に開通したとされています。

馬子唄会館から望む三子山

江戸時代には、鈴鹿峠というと山深い「八町二十七曲り」の急な山道であることから箱根越えに続く東海道の難所として知られていました。

鈴鹿峠の石畳 源流協議会のイベントをしたところです 

長い歴史を持つなかで、旅人を癒し危険を戒める物語が数々生まれました。また、西行が歌に詠み芭蕉が発句し上方で浄瑠璃の脚本となるなど、様々な文化の素材や背景となりました。

「鈴鹿」という名の由来

1)「鈴鹿」という名称にはこんな伝説があります。

 壬申の乱、天智天皇の息子である大友皇子と、弟である大海人皇子との後継者争いの折です。大友軍の襲撃により吉野に逃れた大海人皇子は伊賀を通過し鈴鹿山に入りました。山深くうっそうとして人影なく、さらには闇夜であったので東西も前後もわからず方向を失いすっかり道に迷ってしまいました。
 辺りをよく見回すとかすかに明かりが見え、たどり行くと柴でできた粗末な庵に老爺と老婆が住んでいました。そこに泊まることにした大海人皇子が「日当たりのよいところはいくらもあるのになぜこのような山深いところにすむのだ」と尋ねると、老爺は「ここは霊験あらたかなただならぬ場所である。ここに住む者は王に肩を並べることになる地なのでここに住むのだ」と答えました。
 大海人皇子は「王に肩を並べるとは私のことだろうか」と不思議に思って
「子はあるか」と尋ねると、老爺は
「娘が一人ある」「后となる相が見えるので凡人にまみえぬようこの山に隠してすまわせている」
とこたえるので、皇子はその夜のうちにその娘に逢いました。
 また老爺が
「君のご先祖は伊勢国度会五十鈴川にたてまつられている天照大神であり、子孫を守護し申し上げるとお誓いし祈念すればご加護があるであろう」
と申し上げるので、皇子は天照大神を参詣することにしました。折から車軸のような雨が降り鈴鹿河の川面がみなぎり渡り難くあったところ、2頭の鹿が現れ二人を乗せて無事渡ることができたのでした。それ以来この川を「会鹿(スズカ)河」と改名したと言われています。

安岡親毅『勢陽五鈴遺響』源平盛衰記引用部分を意訳(三重県郷土資料叢書第75集 刊行会 三重県郷土資料刊行会1976年)

 

伊勢名所図会『清見原天皇鈴鹿川を渡りたまふ図』亀山市歴史博物館提供

物語の筋から「あいかがわ」と称するのだとか、鹿が現れた時に首に駅鈴をつけていたから「すずかがわ」なのだとかいう説もあるそうです。また、この時出会った老爺は片山神社の神様であるという説もあります。

このようなお話は、鎌倉時代初期に成立した『源平盛衰記』や江戸時代初期に成立した『本庁神社考』に記述がみられると、『勢陽五鈴遺響鈴鹿郡巻之一』にあります。歴史的事実というよりは後世に作られた物語としてお楽しみください。

 壬申の乱の折、のちの天武天皇となる大海人皇子が奈良県吉野郡から名張・柘植を経て加太を越えて進軍を始めたことは日本書紀などにある歴史的事実です。そのような歴史的な背景を題材に物語が成立したと考えられます。

鈴鹿峠にまつわる他の伝説

2)鏡岩

鏡岩は、峠の珪岩が断層によってこすられ露出面が鏡のようにつやが出たもので、むかし山賊が往来する旅人を襲うのに利用された岩と言われています。身を潜めている山賊の姿は見えないのに旅人の姿はこの岩に映る、ことを利用したそうです。今は苔むした古い岩ですが…。
キレイに磨けば言い伝えのように姿を映すでしょうか?

3)鈴鹿御前

いくつもの伝説があるそうです。どんな女性像だったのでしょう?

 鈴鹿峠には人をとって食らう鬼女があったそうです。坂上田村丸(さかのうえのたむらまる)という人物が天皇の命をうけてその鬼女を退治しに都からやってきたけれど一向に出くわす機会がなく月日が過ぎます。いよいよと思ったある日、いつもの風景が突然異界に変わり遠目に美しい女性が水浴びをしています。
 鬼女だとわかっているけれどその美しさについ田村丸が恋文を送ると
「悪露王をやっつけてくれないと妻になれません」
と言いますので、田村丸は「悪露王」をやっつけにいくことにします。すると鬼女は、悪露王のところへの行き方や倒し方教えるために言葉を映し出す不思議な玉を持たせます。その玉のおかげで悪露王を退治した田村丸は美しい鬼女と結婚するのですが、それでは天皇の命に背くことになります。
「それなら私を縄でくくって天皇に差し出しなさい」
ということで差し出しますが、鬼を退治したということで天皇からも許しを得、鈴鹿山に戻って末永く暮らしました。
 この、不思議な力を操り肝のすわった美しく聡明な鬼女が「鈴鹿御前」と言われるようになったということです。

出典『勢陽雑記』(亀山市歴史博物館提供)を意訳

津藩の郷土史家が江戸時代に編纂した『勢陽雑記』の出典を意訳したものです。「鈴鹿御前」という伝説の女性は、このように美女や夫婦仲睦まじい良妻として描かれることもあれば、人をとってくらう鬼女に徹した筋立てもあり、また戦で伊勢国を悩ます手ごわい武人のようであったという筋立てもあります。

4)和琴「鈴鹿」

かつて、天皇家の秘宝に「鈴鹿」という名の和琴があったそうです。この琴は鈴鹿峠近く坂下辺りの鈴鹿川にかかる橋の板からつくられ、たいへん良い音色だったそうです。

「足蹴にする橋板から天皇家に献上する楽器を作るの?」

と思われる方もあるでしょうか?

 橋の板で琴を制作するというのはとても良い考えです。
 木材は性質上よく乾燥しないまま使うと反ったり割けたりすることがありますが、まずは橋の板材となるまでにしっかり乾燥させていたはずです。さらに橋の一部として固定された板は、おかげで長い年月にわたり鈴鹿おろしの風雨や乾燥にさらされ板の髄まで最高の乾燥状態であったはずです。そのような材からできた楽器はさぞ深く美しい音色をまっすぐに奏でたことでしょう。
 どんな木の種類だったのかも気になるところです。

▼安岡親毅『三重県郷土資料叢書第75集 勢陽五鈴遺響 (2)』S51年4/1三重県郷土資料刊行会
▼『勢陽雑記』
▼亀山市教育委員会まちなみ・文化室発行パンフレットイラスト 案内図『加太宿』『坂下宿』

資料は亀山市史などから探しました。歴史やむかしの地域の暮らしぶりなどを知ることができる亀山市歴史博物館でじかに資料にふれてみてください。